"Plastic Vagina" Statement by Yuri Umemoto

「プラスチック・ヴァギナ」についてのステートメント

 

 先日、音楽批評誌「Mercure des Arts」にて、本作品についての記載を含む批評 [LINK](編集長、丘山万里子による批評)が掲載されました。

 当該記事には、本作品を「レイプ」などといった強い言葉で形容するなど、作品に対しての誤解を助長するような記述が散見されました。「精神的レイプ」といった言葉で、作者をまるでレイプ犯であるかのように形容するような批評に対しては、アーティストとして強く反発するとともに、今後、当該記事が拡散され、作品のコンセプトについての誤解が定着してしまうことを憂慮し、ここに作品について、音楽内容の解説も含めた更なる説明を行います。

 

 

 

 《プラスチック・ヴァギナ》は、2022年に梅本佑利によって作曲されたヴァイオリンのための作品です(初演時に公表されたプログラムノートはこちら [LINK]を参照)。

 本作は、主に日本における男性向け性玩具「オナホール」を題材とし、日本の消費社会における性消費の過剰性、男性中心の性消費社会で造り上げられた、歪な「女性器」の具象を描いています。また、その創作には、作者の非断定的なセクシュアリティも起因していることを後述したい。

 

 

 

・消費社会が造り上げた「オナホール」という歪な女性器像の観察

 

 作者が分析するに日本のオナホールは、その商品において、「構造」、「機能性」や「素材」、パッケージの「キャラクター」を重視する傾向にある。

 店頭では、商品ごとに内部構造が確認できるオナホールの断面がサンプルとして陳列され、パッケージにはリアリスティックなイラストによる女性器の断面図(日本の成人向け漫画における断面図表現に通じる)が描かれることが多い。品名には、「名器」や「ペット」と言った単語が多く使われていることから、女性器をモノ化、客体化するような表現(あくまで作者は本作においてその表現を全否定する意図はない)も多くみられる。

 

 「オナホール」において、その商品のセールスポイントは基本的に「内部構造」と「機能性」である。「断面図」などを用いた解剖学的な表現でありながら、構造は本物の膣とは全く異なる、極めて人為的、非現実的な空想である。

 作者はそういった「オナホール」における「構造と機能性」に注目し、膣構造を性的にデフォルメした一見するとグロテスクな「内臓」そのものが、男性の性的欲望による、ミニマムな女性器の象徴として存在しているのではないかと考えた。ヘテロ男性が「エロ」を突き詰め、取捨選択した結果、この歪な形をした「架空の膣」の構造のみが、「エロ」のために必要とするミニマムな要素として成立したのではないか?という考えです。

 

 

 

・アセクシャルな私の視点

 

 高校1年生の頃、自分は巷の「エロ」が周りの人の思う「エロ」として、性的に受け取ることができていないのではないかと感じた。勿論「エロ」が形容するものの意味はなんとなく理解できた。だが、実際にそれらを見て、性的に興奮したことはこれまでなかった。巷の一般的な「エロ」の創作物はどちらかというと自分にとって「珍奇」なものであり、同時に拒否感もなかった。もし、私の前に、江戸時代の「春画」と、今の「エロ漫画」を並べたとしたら、「奇妙さ」で言えば、同じ受け取り方をする。何方も同じように「エロ」として受け取れない。

 

 男友達との「エロ」の創作物に関する会話に差し障りはなかったが、性的な行為に関しては全く関心がなかったので、「自分には性欲が全くない」ということを周囲の親しい男友達に伝えていた。

 「アセクシャル」という言葉に納得し、自身のセクシュアリティとしてそれを認識したのは高校3年生のときである。「私は一生アセクシュアルだ」と断定するつもりはなく、現時点では、非断定的に自身を「クワロマンティック・アセクシュアルと自認している。

 

 

 

 ある時、興味本位で初めてアダルトショップに入ったとき、私は強い衝撃を覚えた。壁一面に無数のオナホールの断面が展示されている空間はとてもグロテスクな世界で、漠然とした「違和感」のようなものが私を襲った。なぜなら、「オナホール」が持つ要素の殆どが、これまで私の中で定義していた「エロ」の要素と全くもって異なるものだったからだ。”これが「エロ」なのか?「エログロ」とも様子が違う”と。

 

 

 

 ・グロテスクとポップな表現・音楽的文脈

 

 ポップでカラフルなパッケージと、内包されている「グロ」のギャップに衝撃を受け、私はその形容し難い感覚を、音楽に置換した。その表現にロジックはあるものの、結果的には極めて感覚的な、「音楽的」な作業であったと言える。「プラスチック・ヴァギナ」の語はこれら音楽表現そのものを意味します。

 

 音楽における「長」(major)と「短」(minor)という、二つの関係は、音楽においてしばしば対比的に扱われる。「長」は協和(consonance)的性質を持ち、「短」は不協和(dissonance)的性質を持つ(学説的な立場によって捉え方に違いはある)。感覚的に「明るい」(light)、「暗い」(dark)または、「楽しい」(happy)、「悲しい」(sad)と言った言葉が当てはめられることも多い。だが、古今の音楽において、ときにその対比関係は逆説的に扱われることもある。例えば、フランツ・シューベルトの音楽には、一般的には「悲しい」とされがちな「死」を連想させる音楽的情景において、「長三和音」を度々使用するし、他のクラシック音楽、劇伴などにも、度々そのような表現を見ることができる。ホラー映画などのサウンドトラックでは、故意に楽しげな「長調」を用いることで狂気的な恐怖を表すこともある。

 

 「ポップ」と形容されるような音や、「major」な音使いと、「グロ」はときに隣接する。山根明季子の《ハラキリ乙女》(琵琶とオーケストラのための)において、彼女は次のように述べている。

 

 ハラキリ、切腹とは武士が腹部を短刀で切り裂く自死の作法。描こうとしたのは、刀を持たない現代において、カッターなどの鈍い刃物で斬りつけるような質感。琵琶が空間を切りつけ、オーケストラから溢れ出すのはショッキングピンクを基調に夢いっぱいつまった乙女の器官であり大量のもの言わぬ物質の塊。”

 

彼女はこの「ハラキリ」を題材にした作品の中で、時々、鉄琴によるキラキラとした音色や、「major」な音使いを多用する。「ショッキングピンク」という彼女の言葉にあるように、音楽自体は「ポップ」な色彩で溢れている。

 

 「プラスチック・ヴァギナ」では、「ポップ」の裏側にある「グロ」の表現、既存の「長」「短」がもつ観念の逆説的な音楽語法を模索した。例えば、均一、幅広なヴィブラートを過剰にかける長音階は、聴く人に、どこか奇妙な感覚を表出させ、調性が持つ固定観念を揺さぶる。この場合、この奇妙な違和感は、過剰なヴィブラートによる、非調律的な、不安定なピッチによるものだと作者は考える。実際に聴者がその音を聴いてどう感じとるかについては、当然、コントロールできない。しかし、ミニマムな構造(ここでは「長音階」)をエフェクト的に「フィルタリング」することで、既存の構造が持つ固定観念と異なった音の聴こえ方を促すことはできるかもしれない。

 

 

 ・フェミニズム的側面を持つという指摘に対して

 

 本作品は、日本の消費社会における性消費の過剰性、ヘテロ男性中心の性消費社会で造り上げられた、歪な「女性器」の具象を比喩的に描くとともに、極端なところまで来てしまった日本のカルチャー」、「表現」の文脈を回収し、誇張して、それらを提示するという表現目的を含みます。そしてあくまでも作者が申し上げたいのは、殊更その性消費の在り方を、あらゆる性的客体化を含む表現技法を全否定する意図や、日本の「エロ」を否定する意図もないことです。同時に「オタクとフェミニストの対立構造」を煽る意図も一切ありません。日本のフリーダムな性的表現を賞賛せず、「性器解放」も主張しません。あくまで作者が行うのは、極限まで辿り着いた日本のカルチャー、表現の文脈を回収し、それらを提示すること、音楽語法の追求、「作家自身が生きる社会の暗黒部分を描くこと」、そして、西洋音楽という社会の文脈において、男性中心的な立ち位置以外の視点で創作することです。最後の文言には、少なからずフェミニズム的主張を含みます。

 

 

2022年4月21日 梅本佑利